個展「後藤元洋写真展」(1989.6 FROG II)他

「焼きちくわ」という名の精神寄生体もしくは今世紀最大のドラッグ■岡俊蔵

「どうして? まあいい.でもよく聞け,きみは承知しているのだろうが,実際にはきみはきみじやないんだ.ぼくの一部だ.」
 スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』

テクノロジーの進歩がもたらしたものは境界線の溶融である.

 

 後藤元洋は,1985年11月の初めての個展「とにカクやぁ−だもんね」から,「24級ハンカクあけ」'86・3,「あやかりたい」'86・7,「Kyu Sei Syu」'87・2,「GRATEFULDEAD」'87・6,「花かるたの正しい遊びかた」,88・3,「ズボンしわ伸し器」'88・7,「MIRRORSHADES」'88・11,「焼きちくわ」'89・5,そして1989年6月,ここFROG IIで行なわれた個展と,ずっと自写像を発表しつづけてきた.
 自写像とは「開放」と「自閉」が同時に存在している世界であり,言い換えれば「自己」と「他者」の,「内部」と「外部」の,「現実」と「幻覚」の,「正気」と「狂気」の,「意識」と「無意識」の境界線が溶融しているありさまの露呈である.それは,写真というテクノロジーが生みだした装置によって生じる現象である.
 1989年5月13日から21日まで,PAXギャラリーで行なわれた「焼きちくわ」展において展示された写真の一つに,裸で横を向いたバストショットの彼が,上を向いて「ちくわ」をくわえているのがある(FROG GAZETTE No.6,8Pに載っている写真).そこに写っているのは彼であって彼ではない.彼は自己を撮ろうとしているのではない,かといって他者としてカメラの前に立っているのでもない.それは,一瞬の自己の記録でも,連続した時間のなかにおける自己の記録でもなく,彼がイメージしている世界を創りだすために,ある種の役割を持った他者を演じているのでもない.また,自己と社会の閑係とか,社会的イメージの集成としての他者を演じているのでもない.もちろん,ナルシスティックな情動に突き動かされて生まれたのでもない.
 彼にとって自写像とは,自分のなかに異物や他者をさまざまに放り込みながら新しい自分を次々と組み立て直していく行為にほかならない.つまり,写真という装置を使って「自己」と「他者」の,「内部」と「外部」の,その他もろもろの境界線を溶融し続ける行為なのである.
 しかし,ここに写っている「ちくわ」とは」体何なのだろう?そのヒントは,たぶん写真展会場正面に置かれた「危険」と赤字で書かれた札の掛かった「ちくわ」の入った水槽にあると思う.彼は,この「ちくわ」をある種の生命体として扱っているのだ.そして,その生命体は彼にとって,いや人間にとってこのうえなく危険なものなのだ.それは,寄生体だ.それもただの寄生体ではない,人間の精神に巣食う寄生体なのだ.
 だから,この写真は,彼がただ「ちくわ」をくわえているのではなく,今「ちくわ」を飲み込もうとしているか,もしくは,吐き出そうとしているところなのであろう.
 その寄生体が彼の体内に入ることにより,すべての境界線が溶融しはじめるのだ.すると,この寄生体の入った水槽につけられた「危険」という言葉は,あらゆる意味での変事に対しての恐れであり,テクノロジーの進歩の否定である.
 だが彼は,ちくわ=寄生体=異物を飲み込むのである.それは,写真展会場正面にインスタレーションされた,サイケデリックな作品を見ることで理解できる.そこに表現されているのは,まさに「自己」と「他者」の,「内部」と「外部」の,「現実」と「幻覚」の,「正気」と「狂気」の,「意識」と「無意識」の境界線の溶融のありさまである.
 そこにあるのは,まちがいなく今世紀最高のドラッグである.

おかしゅんぞう■

 

(FROG GAZETTE, DECEMBER, 1989より)