写真/論・5 里博文+後藤元洋世界と身体のはざまで 文・飯沢耕太郎
十九世紀の写真の発明は、ルネッサンス以来積み上げられてきた「見る」技術の完成であるとともに、視覚中心の世界を完全に成立させた。
しかし、視線の肥大化は、世界と身体との全体的な関係を断ち切り、いきいきとした交流を不可能にするものでもある。
里博文や後藤元洋の写真行為は、自らの身体を環境に環境に投げこむ(セルフ・ヌード)ことで、世界の眺めを一変させ、自己と世界との豊かな関係をふたたび取り戻そうとする試みといえる。先日、大阪で里博文と会った時に、奇妙な体験をした―というよりさせられた。
彼は今、アリゾナ大学芸術学部の修士課程に在学中だが、卒業制作の準備のため一時帰国している。このところ、彼のユニークな活動も、次第に知られるようになってきて、幾つかの大学や写真学校から、講師として呼ばれることも多くなった。その授業のなかに、彼は一種の集団カウンセリングの方法をとり入れているという。
詳しい内容までは聞かなかったのだが、互いの記憶を辿ったり、共通体験を積み重ねたりすることで、表現者としての“根”の部分を、客観物として把握しょうとする試みらしい。別れぎわに、「話だけじゃしょうがない。実際にやってみなくちゃ」と、ひとなつっこい笑顔で言われて、有無を言わせず実験台にされてしまった。
目をつぶり、里に手を引かれて歩き出す。信頼はしているものの、かなり恐い。不意に街の雑音(ノイズ)が耳に激しく飛びこんでくる。同時に脚の先の感触がひどく気になり出す。アスファルトから、砂利の地面に、そしてそれが土の感触に変わると、蝉の声が大きく聞こえてきた。里にうながされて目を開けると、そこはとある神社の境内だった。歩きはじめた喫茶店からは、ほんの数十メートル。わずか数分の短い旅だったが、世界の眺めは一変していた。
この「ブラインド・ウォーク」の体験は、あらためてぼくに「見る」ということの意味と限界を考えさせた。われわれが普段いかに「見る」ことに頼りきっているか、そしてそのことによって、いかに世界との交流の豊かな可能性を断ち切っているか―それは頭ではわかっていても、実際にはなかなか体験のレベルで納得することはできない。それとともに、里博文という写真家が、その写真行為を通じてやろうとしていることの輪郭が、おぼろげながら見えてきたような気がした。* 写真という媒体について考えてみる時、それがどうしても“眼の隠喩”であるという事実に突き当らざるをえない。写真がルネッサンス以来の「見る」技術―遠近法の探求の結果として、十九世紀に発明されたという事実は、決定的だったように思える。それは人間の眼の能力を越えた精密な機械じかけの眼球として、世界中のありとあらゆるものを貪欲に見続けてきた。たしかに写真の登場によって、人間の視覚世界は驚くべき勢いで拡大し、それまで闇の底でうごめいていたものたちも、明確なイメージとして見ることが可能になった。「見えない」ものを「見える」ものにする能力こそ、十九世紀以後写真が世界中に急速に普及した最大の理由であった。
ところが、視覚のみが肥大化することによって、きまざまな問題も生じてきた。いうまでもなく、われわれの知覚は視覚だけでできあがっているわけではない。聴覚、嗅覚、味覚、触覚と視覚が結びつくことによって、知覚は全体的なバランスを保つことができる。さらに各感覚を統御し、刺激に対する反応と運動の束として組織する脳の存在がある。視覚のみが特殊化し、肥大化することは、このバランスを破壊することになる。
われわれはもはや、素朴な意味で身体と世界とが直接触れあい、対応するような関係を失いつつある。身体と世界との間には、「見る」技術によって視覚化された世界のイメージが、フィルターのように入りこんでいる。われわれはそのフィルターを通してしか、世界を“感じる”ことができないのだ。
里博文や後でとりあげる後藤元洋の表現は、現在最も洗練された「見る」技術といえる写真を使って、身体と世界との直接的なつながりを回復しようとする逆説的な行為といえる。その時に、“眼の隠喩”を“身体の陰喩”にまで還元するため用いられた装置が、彼ら自身の生身の肉体―セルフ・ヌードであった。* 里博文の経歴で興味深いのは、神戸学院大学在学中の一九七三年に、イギリスのダラム大学に留学し、心理学や精神分析を学んでいることである。彼はこの頃、出身地奄美大島から引きずってきた濃密な共同体の意識にからめとられて、窒息寸前の状態にあった。父の死をきっかけにしたイギリス留学は、とりあえず異郷に身を置くことで、地域や家族とのしがらみを断ち切り、自己を見つめ直すきっかけを得るためのものであったという。
その後、□ンドン郊外の病院にカウンセラーとして勤務している時に写真との出会いがあった。その意味では彼にとって、心理療法と写真とは、わかちがたく結びついている。つまり、写実は自己と世界との結びめを解きほぐそうとする彼の探求の過程で選びとられた手段であり、必然的に自己凝視の装置として使われるようになる。彼の写真がまずいっさいの夾雑物を排した裸の自分―セルフ・ヌードに向かったのも当然といえるだろう。
里は一九七七年頃から本格的に写真家としての活動を開始するが、初期の作品では無地の背景を前にした裸体を、ストレートにとらえたものが多い。彼は赤ん坊のように無防備な婆で、闇の空間に投げ出され、恐れや驚きや歓びを全身を使って表現しようとしている。マスターベーションした精液を掌に受け止めた、感動的なセルフ・ヌードが撮影きれたのもこの時期である。
その後、彼の作品には、次第に背景としての自然が登場するようになる。それは多くの場合、水、岩、森、砂漠といった、古来人間と自然とが宗教的な感情を媒介として交流し続けてきた場所である。里の近作にはアニミズム的な自然観に対する共感の姿勢が、明確に打ち出されている。自己の存在の揺らぎを心理療法によってコントロールすることが可能になった時、断ち切ったはずの奄実の自然の記憶が、ふたたび浮上してきたということだろうか。アリゾナ、吉野、恐山といった異なった自然との交流を経験した今、彼の大きな鞍馬は、かつて彼を包みこんでいた奄美大島の森の奥深く、自らの身体を投げこむことであろう。* 一方、里よりは一世代若い後藤元洋の場合、還るべき自然への回路は、あらかじめ閉ざされている。後藤の場合、彼の身体が投げ出されるのは、記号の雑音(ノイズ)に満たされた都市の空間である。あくまでもきまじめな里のセルフ・ヌードに対して、彼の写真行為がパロディ、あるいはパスティッシュの趣きを帯びて見えてくるのは、そのためだろう。
後藤の最初の個展「とにカクやぁ−だもんね」(PAXギャラリー、一九八五年)は、路上、電車の中などに「倒れこむ」行為を撮影したものであった。反原発運動のパフォーマンス「ダイ・イン」を模したものだが、「倒れることによって引き起こきれる周りの人の反応が面白かった」(「ちくわが僕を呼んでいる」『イメージフォーラム』一九九一年八月号)と、彼自身は語っている。自らの身体を状況に投げこむことで、さまざまな「反応」を引き出そうとする態度は、初めから一貫していた。
後藤がセルフ・ヌードを積極的に使うようになるのは、一九八七年の個展「Kyu Sei Shu」(PAXギャラリー)あたりからである。髪の毛を剃ったり、伸ばしたり、写真と奇妙なインスタレーションとを組みあわせたりすることで、後藤は彼の肉体そのものを“異物”と化そうとする。都市の日常に投げこまれた“異物”としての身体は、安定した視覚世界の秩序を引き裂き、攪乱する。後藤の異常な肉体の周囲の空間だけが、エアポケットのように歪んでくる。
その“異物”化がほぽ頂点に遺するのが、−九九〇年以降に展開される「ちくわ」と「野菜」のシリーズであろう。ちくわ、キュウリ、ニンジン、ちんげん菜、ブロッコリーなどを口にくわえるという単純なパフォーマンスだが、その効果は絶大なものがある。異様に歪んだ口元からはみ出すちくわや野菜と対席的に、その表情やポーズは、表しみとエクスタシーが混じりあったシリアスなものである。われわれはまず爆笑し、次に奇妙な切実感にとらえられる。このものと情報があふれかえる高度資本主義社会を生きるわれわれは、多少なりとも後藤の姿にわが身をだぶらせることができるのではないだろうか。
後藤のセルフ・ヌードは里とはまったく異なった位相で展開されているとはいえ、自らの身体をある種の象徴的な記号として使用していこうとする態度は共通している。その意味では彼らの写真行為は、従来の意味での自画像(セルフ・ポートレイト)ではない。彼らの写真に写っているのは、固定した、統一的な自己像ではなく、世界と身体との間に張りめぐらされた網の目を行き来する流動的な存在としての自己である。一方的に見ることの限界を越えて、身体を通じて世界の眺めを変えていこうとする試みの集積が、彼らの写真行為であるともいえるだろう。(いいざわ こうたろう 写真評論家)
(太陽 1991年12月号より)